この文章、情報媒体を介してピンポイントでアジろうと思ったけど、やはり止めておこう。

結局、世界は世界が世界たることを世界自ら気付かなければ意味が無いのだ。

他者によって気付くこともあるだろう。考力を使わないと意味が無い。

自己という点において外界に何も期待は無い。結局コスモは、ミトコンドリアの中にも存在するのだろうか。

きっと存在するだろう。だから、己の中にもコスモはあるという命題は成立しえる。

そのことに気付いているはずの世界は、まだわかっていないらしい。

行きたいなら行けば良い。

それは一歩前に行ったのかもしれないけど、それは九十九歩後退している事なのかもしれない。


そんな球体の上を歩いているのだ。上も下もわからずに。


遠心力に絶えず揺さぶられているのだ。


もしかすると、生きることは地に必死にしがみついて弾き飛ばされないようにすることなのかもしれない。


でも、上下もわからないのに弾き飛ばされたらどこへ行くのだろうか?


右か左か・・・出来ることなら右が良い。右の場所は解っている。